JH 「馬鹿と阿呆。腹がきまる。四年半の修行。」
昭和五十七年六月十三日 朝の御理解
御理解 第八十節 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたの ではない。みな、神のおかげで生まれてきたので、早く生まれ た者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、 年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬 うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれ ぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。」
昨日、東京の荒川教会の二代を賜る人であろうと思われる、そこで修行をしておる先生がここに修行に来ておりましたですね。
昨日、ねんごろな手紙がまいりました。丁度一と月ここに居ったそうです。又、その教会長という先生からも大変丁寧な御礼の手紙が一緒にまいりました。
今日はこんなだったと昨日は美登里会でしたから、その話をしておりましたら、荒川教会の秋山さんがひょろっと参って見えられた。あっ、今荒川教会の事を話しよったんでしたがという事。その工藤という先生でしたが、工藤先生が書いております中に、合楽教会での修行は一と月でしたけれども、十年間の修行させて頂いた以上のおかげをこうむりましたとこう、何を頂いて帰り、何をお教会で実験、又実証していっておるかはわかりませんけれども、私は、もうお道の信心はね、なら、今日は十三日です。十三日会とは神願成就の日。
神様の願が成就するという事は私共がね、その神様の願の為に御用にお使いまわしを頂くという事なんですねよね。
ですから、問題は神様のお心がわかり神様のお心に添い奉らなければこういう心掛けになったらおかげを受けるぞと言われたらその心掛けに本気にならなければ。
私は、今日のこの御理解なんかは,もう、一番おろそかにされておるみ教えじゃないかと思いますね。いや、そげん年寄りを粗末にせん。まあ、信心しよるから 粗末にはせんという程度の事であって、本当に大切にしておるかどうかという事ですよね 今御本部で行われとります教師信行会、三日間にわたって若先生が私の代理で参りました。で、昨日、午後から帰って参りましてから、まあ、報告に来てくれまして、まあ、いろいろ、もう、いよいよ、その合楽の御理念によらなければというような、布教部長がお話をなさっておられました、という事ですけれども、もう、とにかく、今迄の金光教では助からないのだと、今迄の金光教では駄目なんだと、ですから、ここに、今迄金光教がこうだと決めておった枠をとらなければいけないんだというところまでの話を、なさったんだそうですけれども、なら、枠を取ったらどういう事、信心するのかという事は説かれなかった。だから、そこまでは、わかっておられるようですよというお話でございましたが、ね。
本当にそこに生きた神様を現すといったような、沢山な先生方が集まってお話を賜りましたけれどもなかった。あちらに、臨ませて頂くのにどういう心掛けで研修を受けたらよいかと神様にお願をして休んだらお夢の中に、もう、皆からもう、さんざん馬鹿にされておる。ははあ、これで行こうと思うたと言うのですね。
いうなら、馬鹿と阿呆で道を開けと、こういう合楽ではみ教えを下さるですけれども、本当にそれで行こうという腹になる事ですよ、ね。誰がどんなに、いうなら、言い訳はするまい。どんなに馬鹿にされても、グッ!!とこう腹を決めたら楽になったら三日間の間にも、それこそ、合楽の若先生ですか、合楽の若先生ですか、いうならおかげの泉でおかげ頂いとります。今の荒川の先生も丁度見えとったそうですが、大変ねんごろな御挨拶にわざわざ若い、いうなら若先生の所に御挨拶に見えたと、もう本当に馬鹿にされるだんではなくて、まあ、大変面目をほどこしたという意味のお話を昨日しておりましたが、ねえ。私、それです金光様の御信心は、ありゃ、もう、不思議です。あぁ、馬鹿んならんならんかきついなあというもんじゃないです。
腹を決まったら私が、んなら、椛目時代のあの四年半の修行という、その成り行きをいよいよ、黙ってそのどんな事でも受けようと、腹を決めたら、ひとっつも、苦しい事じゃなかったです。有り難かったです。実証が生まれてくるから楽しかったですね。いうならば、若先生が今度、三日間の研修で、どういう心掛けでそれこそ、誰からどんな人から馬鹿にされても、ひとつ馬鹿で行こう、阿呆で行こうと腹を決めたらね、もう、馬鹿にされるだんではない、それこそ、まあ、皆に大事にされたとこういうわけです。
問題は腹が決まったらね、それを実行に移そうと腹を決めたらもう、おかげになるんです、金光教の信心は、ね。工藤先生が申しておりますように一と月でしたけれども、十年間の修行をした、本当に、なら、合楽理念の何か一言でも帰ります時に何か一筆頂きたいと言うから書いてやりました事をです、もし、なら、工藤先生が本気で実験、実証して行ったらね、その気になったらおかげ頂くんです。
だから、漠然と聞いて、いうなら、御理念のマスタ-という事が言われますが、それをマスタ-しただけじゃいかんです。その中の、いうなら、一つでもよいから行じる事です、ね。それを、なら、こんな事にまで馬鹿んならんならんとは残念な事であるといったような事があっても苦々しい事ですけども、腹を決めるという事です。
もう、こう、これで行こうと皆さん改めてね、果して年寄りを大切にせよとこう仰せられる、ね。いかにも親孝行しとりますというようだけれども、神様に通うような大切にさせてもらうという腹が、お互い決まっておるだろうか、ね。
御神願が成就するという事は、ね、只、神様の願がいうなら、成就するという事でしょうけれども、その願に答え奉らせて頂くのは私共なんです。ですから、神様の願を知っておるだけでそれを行じなかったらどういう事になりますか。又は、明日はここ、出来たり出来なかったりでは通りません、ね。もう、それこそ、一本の線香でもいいです、ね、火がついておれば、いうなら、紙の裏、表を突き通す事ができると、神様はおっしゃるですもんね。はい。神様の心を突き通すほどしの芯が立たなきゃ駄目です、ね。
本当に、ね、まあ、年寄りを大切にせよと、まあ、お互いが粗末にしとらんにしても、本当に神様に通うような、あっ!!というような、いうなら取り組み方が出来ておるだろうか、と、ね。
最近合楽で頂きます、まあ、これは最近に限らぬ事ですけども、もう、本当に昨日も研修の時に申しました事でしたけれども、これほど噛んで含めるように、しかも、その気になれば誰でも行じられるように、そして、なるほどと合点がいくお話を日々頂いておるのだから、合点ばっかり、合点組してばかりじゃ駄目だと、ね。それが、あなたの血に肉にならなければ、一言でも、一言なりと、二言となりと、三言と、それをいよいよ自分の物にしていく事の楽しみというものがね、生まれてくるようなおかげを頂いて、はじめて神願成就というような事になるのじゃないでしょうか。
問題は腹を決めるか、決めないか。若先生が、もう、本気で例え人がどんなに・・この前の研修の時に丁度、陸奥の石動教会から毎月神愛会に参ってくる先生がおります。もう、研修に行ってからその、お話が選ばれておったそうですから、演台の前に立って一番はじめに、私は合楽教会によって教えられ助けられておりますと言ったという。そしたら、偉いその先生が合楽の話ならやめて下さいと言われた。いう中に、例えば、そういう、なら、まあ雰囲気の中にあってもです、中にはそれこそ、合楽の若先生ですかというて、わざわざ尋ねて来て下さったり、厚う御礼も言われたりするような、いわば向きもやっぱりあるのですけれども、ね、そういう話を前に聞いておりますもんですから、どんなに、なら、合楽の事を、ま、悪う言われるような事があっても、も、本当に一つ馬鹿と阿呆で行こうと腹を決めた。腹を決めたら馬鹿にされるどころではないかえって尊重されたというのです。
問題はそこに腹が決まったら、そこにちゃんと、もう、神様はねおかげ下さるんです。ね、例えば本当に、ね、これが神様のお喜び頂ける事だとこう思いますけれどもね。
先日ある方が、そういう意味の御理解を頂いた時にお話を頂きながら線香花火を頂いたと。お話を聞いておる、はあ、それどこじゃない、本当にそうですと合点して頂いておる。ね、だから、まあ、本当にそうだと思ったから行じようという気になったんだけれども、それが、本当のものではなかった、線香花火のようなものであったから、ぱっとついてはぱっと消えたね、そういう間はいつまでたっても神様がためしにためされたりするです。腹が決まってないからです。そうだ、と思うただけだからなのです。ね、本当に今度の三日間の研修はいよいよ、馬鹿と阿呆で行こう。どんなに馬鹿にされても、もう、それを受けるという気になったら心が楽しゅうなって来た。 心が喜びにいっぱいになってきたそうです。その気になったらそういう心がおこってくるものです。本気で腹が決まったらね。その喜びかついてこないなら本当の事に決めとらんとです。只、線香花火のような思い方をしただけなんです。それではおかげになりません。ね、
今日は一番出来ておるようであって出来てないのが、年寄りを大切に、信心さして頂くのだから、ね。又、教祖の神様【 】ておられるのだから本気でもう【 】から年寄りを大切にする。まあ、場合には大切にされないような年寄りを沢山あります。 家の年寄りはかりは大切にしようと思うけれども、大切にでけんという人があります。ね、だから、そういう事ではなくて、例え親は親足らずともいわば、子は子たれという生き方をね、いよいよ身につけて、それを行の上に現す事が信心だと私は思います。ね、そういう信心をいよいよ育てていく事が、信心のお育てを頂く事だと思います。
どうぞ。